昭和48年8月16日 夏季大祭
ただいま、若先生がお話し申しておりましたように、この祈願祭、これは九州の桂先生のご信心の流れをくむ信者、教会をもって、毎年、暑いさなかに、大祈願を込めさせて頂いておるのでございます。それこそ、人間の誰しもが願っておること。その願いを願いとしての祈願祭。そこで、私は思うのですけれども、願うということが、神様が聞いておって下さる、見ておって下さる神様であり、そういう神様ですから私どもがどのような願いを立てましても、それを聞き届けておってくださる。
そして、いいなりの言わばおかげを下さってある。それは降るように、もう降るようにおかげは下さってある。けれども、受け物が悪いからとおっしゃる、受け物が悪いから、せっかく一生懸命で、言うなら汗みどろでお願いをして、一生懸命お参りをして、お願いをして、神様がくださっておるものをよう頂ききらん。場合にはあまりに大きいから持てない、願いがあまりにも大きい。持てないでおる。
場合には、それは水のようなものですから、こちらの心が破れておるから漏れてしまっておるというようなことではないだろうかと思うです。ですから、今日の、私は祈願祭、今朝の朝のご理解にも皆さんにもそのことを聞いて頂いたんですけれども。祈願をするということ、お願いをするということは、同時にそのおかげの受け物も頂かせてください、作らせてくださいと願う、言わば祈願祭でなからなければならいということであります。
どうぞ、お酒をくださいと言うて、神様がお酒をもうやろうと思うていっぱい持っておられる。ところが、その受け物が1升のお願いをしながら、5合しか入らん物を持って行ったり、入れ物だけは1升と願ってこんな大きなのを持っていっておるけれども、それがどうも油臭かったり汚れておったりというたんでは、神様がそれに入れて下さるはずがない。
または、こういう所から破れてしまっておる、こういう所から漏れておるんだということになって、おかげを言うならば、完璧なおかげをよう頂かずに、そして、頂かずじまいで終わる人もたくさんあろうかと。そして、お願いというものは、まあ符が良かったとは思わんでしょうけれども、おかげは受けたり、受けられなかったりというような不徹底なことになってしまう。だから、本当なおかげまで不徹底な心で、本当のありがたいという心ではない心でそれを受け止めるから、いよいよおかげが本当のおかげになっていかない。
もう二十数年以前でした、私が神様にいろいろお知らせを頂きます初めの頃でした。椛目の、あのご神前であることを一生懸命お願いをさせて頂いておりましたら、こんなに大きなまな板の上に、それこそまな板いっぱいの大きな鯉が、私がそれをこうやって抑えておるのですけれども、抑える力がないもんですから、それがもうバタバタして、ようその、言わば持て余しておるところを頂いた。
ここでは、鯉のお知らせをお徳と仰せられるが、神様がこのような大きなお徳もくださろうとしておるのだけれども、こちらに力がないからそれを頂けていないのです。さあ、頑張らなという気合を入れさせて頂いたことでございました。ある時には、あるお願いをさせて頂いておりましたら、ちょうど今のそこの脇殿のお便所のような洗面所がこうずらーっとありましてね。これは、まあだ色々お知らせを頂く、私は、その時分は神様にお願いをしますとね、もう汽車の中でも寄りかかっては寢らない、福岡からこちらへ参ります電車で、まあだ私は腰掛けたことがなかった。
つり革をもってから、もう稽古っちゃ恐ろしいもんです。もう立ちながらでも眠れた。それで、神様に色々なお願いをさせて頂いて、お伺いなどをさせて頂きますとね、すっと眠る。してその眠った中に、神様がもうそのものズバリにお知らせをくださったもんです。お夢の中に。あるお願いをさせて頂いてから、おかげが頂けるだろうかと、ちょっとこう壁に寄りかかってから、ちょっとの間でしたけれども休んだ。もう断食から断食。1日にこのくらいの一碗のお粥しか頂かないという時分なんです。眠るという時間ももう実に一週間も眠らなかったことがあります。
北野の教会で、毎日私がお話に参っておりました。そういう例えばあの今日が満願の日だと思わせて頂いておる日に、ひょっと眠ってしまった。そしたら、神様がもう1日と。おそらく知らない間に眠っておるかも知らんけれども、自分の意識としてです、眠っていない。そういう例えば修行もさせて頂いた時分のことでした。
神様にお礼をさせて頂いてから、すっとこう目をつぶって何かに寄りかかってこうすると、もうその眠さというものはつからいっぱい?眠いとですからすぐ眠る。眠るとすぐお知らせを頂く。それがちょうどその洗面所のあの手洗いのようなところで、もう水道の水がどんーどん出ておる。そしてその手洗いの所からお水がどんどんこぼれておる。そして、その辺一面を水を浸して汚しておるというような状態であった。
神様はこのようなおかげもくだされてあるのだけれども、受け物が小さいから却ってあたりを汚したり汚したりしておるといったような状態。いよいよもって受け物を作らなければというその受け物のことについての信心が本気でなされたわけでございます。そういう例えばおかげを頂かなければならないために、私は今、それを、そういう風にはっきり分かっておったわけではないですけれども、そういうおかげを頂かせて頂くために、どげな修行でもしますということなんです。
人間の言うならば、桂先生がなさった修行、福岡の吉木先生がなさった修行、久留米の石橋先生、または親教会の初代、荒巻弓次郎先生がなさった修行。それを、まあ聞き伝えに聞かせて頂いたり、お書物で読ませて頂いて、ああいう修行もなさったげな、こういう修行もなさったげなという、そういうものを真似方なりにでもさせて頂く。それにはこういう大願が立ててあるのであるから、そりゃあ修行しなければとても頂けない。
もうそれも結局は中途半端でしたけれどもね、結局、人間生身を持ってなさった修行。人間が生身を持ってする修行。とてもあの人の、あげな先生の真似はでけん。と言やあ、そげな真似、おかげも頂けんということになるのです。ですから、私はね、本気でやろうという気になりゃできると思うです。まあその時分は本気であったと思うです。自分ながら。
様々な修行もさせて頂きました。そして、そのいわゆる願っても願ってもおかげにならない。修行しても修行してもおかげにならん。そこで、最後に親先生にお取次ぎを願ったことはです、もう右にしてください、左にしてくださいという願いではなくてです。これは、天地の親神様が金光大神を通して、私にかけてくださる願いというものがあろうということに気がついた。
そこで、その願いが成就することのための修行をさせてもらう。ですから例えば当時はどうでも商売で立ちたいと思うておったその商売で立ちたいという願いを断った。止めた。そして、分からない、神様がどう使うて下さるやらおかげ下さるやら分からない。そこで、そのおかげの受けられることのためにです、私の上に起きてくる様々な問題。
それは、どういう苦いことであろうが、臭いことであろうが、甘いことであろうが、辛いことであろうが、一応はそれを合掌して頂きますという誓いを立てた。私は、ようそげなことに気づかせて頂いて、そういう修行を思い立ったもんだと思うてね、思わせて頂いた。そりゃあ、もうほんっとにそういう願いを立てた途端からです、様々な修行は待ち構えておったようにありました。
けれどももう腹を決めてますからね、受けると。ちょっと待ってくださいということは言わなかった。どういうことであっても。それを合掌して受けるという信心が四年半続きました。ちょうど、金光教神愛会の5周年の記念のご大祭をあと半年という、春のご大祭の時まで続きました。あれはもう、ほんとに今から考えてみるとね、それが私がおかげの言うならばきっかけであったと思うのです。
そして、後から色々考えて、今日でも思わせて頂くことは、これは素晴らしいことだな、金光教で言う真とか真の信心とかということを言うが、真の信心真の信心というてどこに焦点を置いて、お互い真の信心を進めておるだろうか。
先程、若先生もちょっと話しておりましたように、先日、私御神前に出ましたらね、もう私ムードなんです。
私はもう大体カーキ色という色が色の中でいちっばん嫌いな色でした。あのレンガ色。私が好きなのは赤とか紫とかという色が好きだった。ところが、この頃ではね、赤とか紫というのが、あまーり好きでなくなってきた。そして、今まで1番嫌いであったカーキ色がですね、非常に好きになってきた。そこでここでは何もかにもカーキ色。
あのバッジなんかもカーキ色。あの当時でけた。私は、信心とはですね、やはり嫌いなもの嫌なものというものが嫌でなくなってくるおかげを頂かなければだめだと思う。嫌いなものが好きになる修行をさせてもらわなければいけないと思う。なぜってどういう嫌なところにどういう嫌いなところに、おかげの例えば札が隠してあるやら分からん。宝探しと同じこと。
カーキ色の椅子の下に宝くじが入れてあるかも分からん。はあ、あの色は好かんからもう寄るごともないと言うたらそれでおしまい。それがです、もう否応無しに私の上に起きてくるそれがカーキ色であろうが茶色であろうがです、好きなものだけは好き、嫌いなものは嫌いと言わずに、それを一生懸命好きになる稽古をさせて頂いておったら、これはいつの間にかカーキ色が好きになっておった。
だから、それだけおかげの世界と言うか、私のおかげの受け物というのがそれだけ広がったわけです。もう私は赤だから赤だけだと言ったようなことは、もう結局赤だけの狭い範囲しかおかげが受けられない。広い心、豊かな心というのはそういうことじゃなかろうかと私は思うです。天地の親神様が、言うならば自然がね、神前の働きそのものがです、私ども一人ひとりの上に様々な働きを見せて下さる。または求めて下さる。
それを、自分の都合の良いことはありがたいけれども、都合の悪いことは御免こうむりますというような生き方ではなくて、もうとにかく受けて受けて受け抜かせて頂くという、もうそれは今から考えてみても、そんなことまで受けんでよかっとろうばってんというようなことまで受け抜いとる。
お金を貸してくれと言やあ貸してやる、くれと言やあやる。もうお賽銭箱をひっくり返してやりました。もうとにかく箸にも棒にもかからんごたる病人を連れてきてから、親はそのまま放からかしてから寄り付かん。それでもやはり受けていきました。盲の病人のおばあさんを連れてきました。もう家内はもうその人の、おばあさんのためにかかりきらなきゃならない。それでも家内はそれを文句を言いませんでした。もうほんとにそうです。
こちらはもう受ける腹でおりますからね、それがひっとつもさわらなかったというようなおかげが、そういう信心修行が四年半続いた。そして、今から思わせて頂くと、ははあ、様々な修行もした、火の行、水の行もした。断食の修行もしてみた、眠らん修行もしてみた。様々に修行をした、みたけれども、それは神様がお喜び下さる修行ではなかった。ただ私の心の力を言わば強くするために、のものではあったにしてもです、神様がお喜び下さる修行ではなかった。
そこで、私が気づかせて頂いたことは、はあ、これこそが神様が私どもに求めたもう、しかも神様が喜んでくださる修行とはこれだとわかった。それが、その後において合楽では、成り行きを大切にさせてもらう、成り行きを尊ぶということになった。これに徹してきた。もちろんその4年後あたりにはです、例えば、どんなに考えてもおかしいといったようなところはね、その頂かん。
例えば金を貸してくれなどというような時には貸さない、もう棒にも箸にもかからんごたる病人を連れてきて、お願いしますと言われたっちゃ御免こうむる。という生き方で、まあまいりましたけれども、もうそれを境でしたね、金借り来る人もなかったし、また病人を預かってくれという人もひとっつもありませんでした。いかに神様のね、ご都合であったか、この男が受けると言うたが、本気で受ける、本気で受け切るじゃろうかという四年半の神様のお試しの連続であったと私は思うのです。
ところがこっちはもう受ける腹になりきってしまってるから受けられた。そして、分からして頂いたことは、これが本当の修行だ、これが真の修行だということになってきた。みなさん、真の修行をするとどういうことになるか。真の修行をさせて頂いて、そこから教祖の御教えを行じさせて頂くというところからです、真の信心ということに、言えるのじゃあないか。またそこにはもちろん、真の、真のおかげというものが約束される。
氏子信心しておかげを受けてくれよと。氏子信心しておかげを受けてくれよ、氏子おかげを受けてくれよとはおっしゃっていない。氏子信心しておかげを受けてくれよである。そこで、その信心とは、どういう信心かということを、これはなら私流という。先日、私は御神前で、もう私の心眼に見る範囲が全部カーキ色なんです。もうカラー。カラー、カーキ色一色である。
そして、そのお茶の稽古をしておる様子を見せて頂いて、ほんとにここには信心の稽古に来るところと仰せられるが、果たしてお互いが信心の稽古に通うて来ておるだろうか。もちろんそれは、痛ければ痛い、痒ければ痒いで願わなければならん、いや、願うことはそれこそ、もうわく蜘蛛のように心の中にはびこっておる。
あれもお願いしとかんなん、これも頼みたい。ああもありたい、こうもありたいという願いがいっぱい持っておるから、痛いなら痛い、痒いなら痒いということを願って悪いのじゃない、願わなければならない。それは牛馬のことに至るまで実意を持って願えば良いと。そこで問題は、その実意ということが問題なんです。ただ願えとはおっしゃっていない、実意を持って願えとおっしゃる。
そこで私どもにはです、その実意というものがなかなか出てこない。分からない。そこでです、それが実意に匹敵するほどしのものというものはです、私は、素直な心で任せるということだと思う。そこでです、痛ければ痛い、痒ければ痒いで、お取次ぎを願わせて頂いたら、金光大神に預けていかなければ。親先生にもう頼んだならば、もう親先生に任せなければ。
そして私は、やはり、信心の稽古をして帰るということ、お取次ぎを願わせてもろうたら、お取次ぎを頂いて帰るということです。今朝からの朝のご理解にね、腹立てば心の鏡の曇ることという御神戎に基づいてのご理解でした。腹立てば心の鏡がくもるということは、神様は願うからおかげをくださってあるんだけれども、心が濁っておる、心が曇っておるからそのおかげが映じない、映らない。
そこでです、これは腹立てばではなくて、おかげの受けられないありとあらゆる心。言うならば、不平不足もやっぱそうでしょう。意地が悪い、根性が悪い。もう言うなら、こういう心では、おかげの受けられないというその心は、腹立てば心の鏡が曇るようにです、不平不足を言えば心の鏡が曇るんだということ。
教祖様のご理解の中に、嫁姑が仲が悪いということは、その嫁姑の仲が悪いというそれが、もう天地に響き渡るとおっしゃっておられます。だからこれは嫁姑じゃありません、夫婦仲でもそうです。対人、最近人間関係でやかましく言われるが、あれが、あんちくしょうがと、例えば思うようなきらばつく?といったような心はです、もう天地に響くのです。神様の心にビリビリ響くのです。
私ども子供の時に、あのよくタニシをとりにまいりました。よそではもう、みんなそのタニシを子どもたちみんな煮てもらうから、家も煮てもらおうと思うて取ってくると、母が言いよります、これだけは取ってきちゃならん、もうこれだけはあんたがいくら取ってきたっちゃ煮てやらん。あのタニシを煮る時グツグツグツグツいうのはね、あのそれこそ百万億度まででもこの音が聞こえよるげなと。
そうでしょうね、あれは生きながら煮られておる。というようにです、私どもが、例えば親と子どもがです、嫁と姑が仲が悪いというそれは、天地に響くほどしのおかげの受けられない結果になってくるのです。だから、それとは反対にです、天地に響くほどしのおかげが、いわゆる真なんです。真心なんです、親切なんです、実意なんです。天地に響き渡るほどしのありがたいおかげの頂けれる心をいよいよ使わせて頂く。そういう心の使い方。
合楽では、二十数年間、私はあの教典一冊に絞って、お話を今日まで続けてきた。おそらく私は、生涯これに取り組むことだろう。教祖様のお説きくださっておるその御教えのその範囲の広さ、深さ、もうただただ頂けば頂くほど畏れ入ってしまう。私どもが、あらゆるいろんな宗教書を、まあ読ませて頂いて、大変難しいお書物なんか読ませて頂きますと、そういう難しいものがね、一つも難しくないんです。
教祖様のもっともっと深い、はあ、お釈迦様があげん言うた素晴らしいことだ、親王?がああ言ってる。けれども、教祖金光大神はそれをもっと深めて教えておられるというところがあるのです。キリストはこう言うておられる。けれども、教祖金光大神はそこんとこのもういっちょ向こうのところを、いわゆる、天地金乃神様直伝なのですから、それはもうそのはずですけれども、そういう素晴らしいものをです、私どもが体得させてもらう。
稽古させてもろうて、頂いて、それを煎じ詰めると、あのたくさんな御教えを煎じ詰めてまいりますと、結局は和賀心を頂くということなのです。和らぎ賀ぶ心をいよいよ頂くということなんです。しかもその和らぎ賀ぶ心にはです、私が助かるだけではなくて、人が助かるだけではなくて、人間の幸せの条件のすべてが足ろうてくるというほどしの心なのです。
だから、このことだけはです、どうでも世界中の氏子にです、それを実行させるとかそういう心になれとは言わんでも、ここに焦点が置かれなければ人間の幸せはありえないんだということをです、私どもが実証させてもろうて、そのおかげの手本を持ってです、世界にこの和賀心時代を創るという運動の展開がなされなければならない。
そこで、ここでは言うなら私流ではあります。そりゃあまだまだ金光大神の信心をですね、私が全部頂いておるとは、ただただなら教典一つに絞らして頂いて、しかも教典の御教えのすべてがです、ならここで25年間私が説いて説いて説き明かしてきた御教えを何年前何十年前のを開いて見てご覧なさい。絶対同じことはないですから。毎日毎日が。というほどしに深い。まだ広い。とても私が一生かかったって説き明かせないだろうと思うです。
だからそこには自然と金光大神の信心を私が頂いて、私風というか、私流儀というものがそこにあるのです。そこにおかげもやはり合楽流ということになってくる。ここにご神縁を頂いた方たちは、だから結局は私流儀にならなければならない。いわゆる、私がカーキ色が好きなら皆さんもカーキ色が好きになる稽古を本気でしなければいけない。無理に押し付けはしない。その努力をしなければならない。
様々なここには信心の稽古に来るところと。ここはお茶の稽古に来るところと。例えばお茶の先生のところに通うて、そうですね、半年ももし通うたならばです、まあ、嫁入り前のお稽古ぐらいならもう半年も稽古すりゃあ立派なことでしょう。点前も覚えるし、頂き道ももちろん覚えますし、それで体得ができるです。それを深めて行くということはまた限りがないのです。これは何の道でも同じこと。
だから信心の道でもです、もうここのところまで、ここまでは体得しておけよ、ここまでは分かっておけよ、ここまでは体得させて頂いて、私は、若い娘さんたちにはそれを言うんです。合楽の信心でここまでは頂いていっておかんと、嫁に行ってから難儀をするぞと。それから先は限りがない。ところが、そういうならお茶の稽古ならお茶の稽古を半年なら半年すれば、稽古に行けばそれこそ馬鹿でもちょいでも一通りはできるはずのような事柄がです。
果たして、なら、私がなら簡単な問題を出させて頂いて、あそこはどう行ったらええかな、あそこはこうと、言うたところへ、さあなるほど、ずっと見てきておる聞いてきてはおるからですね、その茶筅の持ち方やら袱紗の持ち方ぐらいばってん、さあ実際さわいて?みるとなかなか難しい。点前を間違える、順序を間違える。
いかに本気で習うていないかということが分かる、稽古してないかということが分かる。本気で稽古させて頂けばです。お道の信心の稽古というものはです、もうただただ、そりゃ何の稽古でも同じでしょうけれども、楽しいだけではなくて、ありがとうなってくる。それだけではないそれにはおまけがついてくる。おかげという。
ですから、もうほんとに焦点を間違えてです、何十年間一生懸命信心をさせて頂いても、そりゃあもうかつがつながらのおかげは頂こうけれども、神様が喜んでくださるようなおかげにはなってこない。そこで、まだ他にもありましょう。けれども、これは私がはっきり言えれることはです、神様が喜んでくださる修行ということは、私どもの上に起きてくる成り行きそのものを、ひとつ、御の字を最近はつけて御事柄として受けていけとこういうことになっとる。
私どもの心の上にです、どのような問題がありましても、それをもって和賀心にならせて頂くところの稽古だと、まず思えば間違いないのです。いわゆる、合楽ムードというものが皆さんの信心の家庭?の中にもやはり生まれなければならない。そして、一通りのことは分かる、体得しなければならない。
私はもうどこまでもです、そういう稽古を本気でさせて頂くということがです、またそういう稽古をさせてくださいと願うことがです、まあここでは1番はっきり打ち出されておるのが5つの願いであります。どうぞ体の丈夫を頂かせてください。どうぞ家庭円満のおかげを頂かせてください。信心は家内に不和のなきが元なのですから。どうぞ神様、この信心をです、いわゆる子にも孫にもいよいよ家繁盛子孫繁盛のおかげを頂かせてください。
自分一代が繁盛しても子供の時代に、孫の時代になくなるようなことではいけません。もういやあ、ますます子供の代、孫の代に末広に広がっていくほどしのおかげにあらなければならない。そこで子孫繁盛家繁盛はどうでも願わなければならない。そのかわりに、体の丈夫を願うからには、大酒大食をするようなことをしてはならないし、体を害するようなことを平気でやってはならない。
この頃から、何か久留米あたりでは妙なことが流行っておるそうですね。もう若い人達命知らずの人たちが、何か自動車をスピードだして走らしてね、そしてならそのスリルを満喫しようというわけでしょう。ほんとに命の安売りのようなことです。もちろん金光様の信心をする者がそういうことがあって良かろうはずはありません、まあ許されません。
大酒大食、私は以来、お夜食を止めました。同時に、家庭に不和のなきが元ということになった、私はその時点から、もう決してこれは人を責めまいということに焦点を置いて、これは以来人を責めることをいたしません。どうしてかということを言わないことにしております。子孫繁盛家繁盛を願わせてもらう。
どうぞ信心しておかげを受けてくれよとおっしゃる神様の、神の、神願いと言うか、神様の心というのは、どうぞ氏子健康であってくれよ。人間関係の上にも、または財の面にもすべての人間の言うなら幸福の条件というものの上にです、それを全部受けてくれよというのが神の願いなんです。
その神の願いを私どもが願うのですから、これはいくら願うてもよいということ。私どもはもう御神前に柏手を打って頭下げたが最後、もうどんな願いをさせてもらっても、どんなお詫び?をさせて頂く時でも、最後にはこの5つの願いだけは必ずさせて頂きます。だんだんみなさんもそれを実行なさっておられる。そして、素晴らしい体験が次々と生まれてきておる。
それはそのまま神様の願いなのだからです。しかもそういう家庭の和とか健康とか。いよいよ人間の幸福の条件のすべてが足ろうようなおかげを頂いて、その頂いた力を持って世のお役に立たせて頂こう。まあ、それをここでは和賀心時代を創るという運動の展開に取り組ませて頂こう。そういうおかげにこちらもならせて頂こうという願いが5つの願いであります。
今朝からの腹立てば心の鏡の曇ることということは、例えば、不平不足を言えば心の鏡が曇ることとも言えるんだと。根性の悪いことを言いよったら心の鏡が曇るぞということにもなるのだ。曇るということはくださっておるそのおかげがここに映らないということ。映じないということ。
そこでです、例えば祈願を込める、そしたらその込めたおかげをスムーズに受け留めさせて頂く心を一緒に願わなければならないということ。そこで、腹を立てては馬鹿らしい。不平不足を言うちゃ相すまんということになってくるわけです。そのね、今日は私はそれを、どういうようなことがおかげの受けられる元だろうかということを3つ頂いた。
1番信心しておって低級な、低級なのはね、おかげの受けられない元はどういうことかというとね。自分が難儀を感ずるとです、それを人のせいにする、こういう生き方が信心の最低です。うちの家内がまちっとどうかあってくれるといいけれども。あの人がああしたから自分方はこうなった。まあ信心しとらんなら仕方がない。だから、信心頂いておってそういうことを言うたり、感じたりするならばもうあなたは最低の信者だと思うて間違いないです。人のせいにする。
大体、例えばなら私が家内の悪口を言うと言うか。子どもがつとまらんと言うか。それはもうそのままそれこそこの辺の言葉で言うならば、のんごろ向いて?つば吐くようなことです。だから、そういうことではです、自分の顔につばがかかるだけではなくて、そういう心では心が真っ黒に曇ってしまうという意味ですから。
そこでです、例えばそこに難儀を感ずる時にはです、それをあれがああしたから、あれがああ言うたから、例えばそれを、なら社会の、時世のせいにする人すらがある。だから、それをね、自分の手元の所、自分の心の中に発見することなんです。痛い思いをするならば、痛い思いをしなければならないその元を、自分の心の中に頂こうと精進しなければいけない。自分が詫びるよりほかにはない。
詫びると言えば、先日からこんなお知らせを頂いた。ある人がお願いに来た。先生、また失敗しましたというて。そりゃあもうあることを神様に誓うておる。それで、一時ばかりはそれが続きよる。改まったかに見えた。ところがまた失敗しておる。そこで、まあお詫びに出てくるという、まあ純真なところがあることはありがたい。そしたらね、その人がね、閻魔様の前に立ってお裁きを受けておるという図を頂いた。
だからね、お詫びをするということはね、もう叶うためにお詫びをするということでなからないかんです。いつもかつも、お詫びをせねばならない内容が心の中にモジャモジャしておって、心の呵責というものに、いつも言わば苦しんでおるということは、ちょうど閻魔様の前で裁かれておるようなものです。ですから、そういうことではいけませんですね。
お詫びも大切ですけれども、詫びれば許してやるとおっしゃるその許してもろたという印が、こっちに感じられるところまで詫びなきゃいけないということになるわけですね。おかげの受けられんのを人のせいにする。難儀を被るのを、それを家内のせいにしたり、子供のせいにしたりするといったような、これが信心をさせて頂く者の最低の信心であると。
次には、もう例えば改まります改まりますはもう口癖のように言うけれども、改まらない。私はあの三度笠をかぶったあの旅人?姿を頂いたんです。ですから、はあこれはもう三度笠じゃけんで。そげな風に私は思うた。仏の顔も三度と言うから、ところがこの神様は、三度十度ぐらい百度ぐらいはまだよかです。
けれどもね、もう もう百度というのは、百日間繰り返し繰り返し同じところ ばっか通っておるといったようなことではなくてです。本気でここを改まらにゃこれはおかげを受けられんというものを気づかせて頂いたら、本気に一つそこを取り除かせて頂くおかげにならにゃいけません。
1番素晴らしいことはどういうことかというと、ちょうど、一寸法師のように小さいね子どもがね、大きなあの萬寿笠?をかぶった雲水の姿。あの梅林寺さんあたりで、雲水行という行をなさいます。行く雲流れる水というわけ。いわゆるこれが成り行きを尊ぶという修行なんですねやはり。
そういう修行をさせて頂きながらもです、萬寿笠ということは私は、萬?の寿と頂いた。ですから、神様はこういうおかげをくださろうとしておるけれども、今こういうおかげをやったんでは、こんな一寸法師のごとこーまか子どもにかぶせたっちゃガバガバです。似合わん。
願っておるおかげをやりたいのだけれども、それではね、だから問題は私自身がもう少し育たなければならない、大きくならなければならないということなんです。それがです、あの人のせいで、あの人がああしたからこうなったというようなことを言わずに、それを自分の心の上に頂かせて頂くというような生き方こそが自分がいよいよ育っていくことなんです。
人が馬鹿と言うた。俺がどこが馬鹿かと言わずにです、ほんとに自分の馬鹿げたところをです、改めて行こうという生き方なんです。そういう生き方がいよいよ育っていく。そして、神様がくださろうとする大人用の萬寿笠をかぶらせて頂いて、しかも、雲水行が身についてしまうということが、これは合楽の信心の、私は理想だというふうに思うのです。
修行は一生だ、一生が修行じゃと教祖が教えられます。信心も手習いも同じこと。一段一段上がっていくというように、一生がかりで私どもが修行させて、いわゆる和賀心を目指すということは、生神を目指すということなんです。金光教の信者は総生神を目指すという信心にならなければならない。それも、一段一段、ね、進んでいく。それこそ手習いと同じこと。
一生懸命稽古させて頂くうちにです。段々自分の心が和賀心に、ほんとなものになってゆく。本当な信心の進め方ができるようになる。今日の祈願祭、様々なお祝詞の中にも申し上げましたように、様々な願いという願いを、今日はさせて頂いたわけですけれども。これは祝詞の中にはありませんけれども、そういう願いが成就する、そういう願いを受け止めさせて頂けれる心もまた頂かせてくださいと、願うことと並行して私どもの受け物を作らせて頂くという願いも立てさせてもらわなければならん。
そのおかげの受け物を作らせて頂く内容を、言うならみなさんがいつも聞いて下さることでございましたけれども、実際にみなさんにまだ身についていないというわけでございますから、本気で言うならば合楽ムードを身につけさしてもろうて、そして、私が感じておる喜び、私が頂いておるおかげをみなさんも頂いてほしい。そして、そういうおかげを持ってです、また自分の周囲、または周辺に広めていくということが、そのまま和賀心時代を創る運動に参画させて頂いておるということになるのです。
そのおかげの受け物の、まあ、今朝のご理解から、腹立てば心の鏡の曇ることということは、腹を立てれば曇る、曇るからおかげが映らないということは、腹を立てるということだけではないという。言うなら、不平不足でもそうだということ。不平不足を言えば心の鏡の曇ることになるのですから。言うならば夫婦仲が悪いとか、親子の仲が悪いとか嫁姑の仲が悪いというようなことがです、そういう心が天地に響き渡るほどしのものであるということが分からして頂く時に、とてもゆめ恐ろしくてね、不平だん不足だん、喧嘩だんでけんということになる思い込みを作って頂きたいと思うんです。
そして和賀心を目指していく時にです、私どもの心の中に今まで苦しいことだと思うておったり、悲しいと思うておったことが、むしろそれがありがたいことだということになるほどしの和賀心を頂いていってほしいのであります。今日の祈願祭を、ただの自分の、まあ、人間的我情我欲と言うか、そういう我情我欲を並べ立てたというだけの願いではなくて、それがですよ、なら今日の桂先生がご本部のご造営ということをです、目的としての願いであったというのですから、願いに筋が立っておる。
ならここの5つの願いというのもそうでしょう。ギリギリは天地の親神様の神願ご成就のことのためにお役に立ちたい立ちたいの一念が、家庭も円満であらしてください、健康にもならしてください、いよいよ子供の代よりも孫の代と繁盛のおかげを頂かせてくださいと願うこともです、真実の御用ができますようにと願うこともです、神様の願いに応えさせてもらう、いや、神様と願いと一つになるところの願い。
そういう素晴らしい願いを立てさせて頂くのでございますから、そういう願いがです、私どもの上に現れてくる。それを見事に受け止めさせて頂く心、それをキャッチさしてもらう心。それを今日は、いわゆる合楽流に聞いて頂いたわけであります。私が今日、こうしておかげを頂いておるということ。これはまだまだ神様からご覧になれば、まあだ一寸法師のごたる小さいおかげです。
それがこうやって大きな萬寿笠ばっかり大きなとを?かぶっておるような感じなんです。いよいよ私も育たなければならないと思います。私もいよいよ豊かにもっと大きくならなければならないと思います。そのためにです、豊かになることのために、大きくなることのためにです、もうどういう例えば修行が降ってきようがわいてきようがです、それを受け止めさせて頂こうというおかげを、一つ覚悟しなければならない。
昨夜の前夜祭には大きな、お三宝に、まあようもあんなに盛られた。4つ、すいかを4つこうやっておる。 いやあ、これはもういよいよ大修行だなと思うた。先日から私はご神眼にね、こんな大きなすいかのお知らせを頂いた。それがね、なんと地球儀なんです、すいかの地球儀なんです、地図、地球儀なんです。それがすいかなんです。私どもがただ口ばっかり、世界総氏子の身の上安全とか世界真の平和をただ唱えごとのように唱えておるだけではいけません。
本当にその実が上がることのために、その修業をさせて頂かなければならん。私が、世界全般のことを例えば願うとするならばです、それに匹敵するだけの修行をさせてもらわなければならん、それで、それならばです、神様がです、もう言うならば場合にはもう、無理無理言うような修行も求め給うに違いはない。だからそういう時にへこたれてはならないということなんです。すいかということは、すいかの行と言われるくらいですから、もう大変な修行であるということ。願いが大きい。
だから、願いを大きく立てて、それに一歩一歩近づかせて頂けれる信心にならせて頂く。でなかったら、一生かかって修行するということがです、いつも同じ(途中で飛んだ)
最後です、やはりひとせん?そこで信心の稽古をして帰るということ大事です。そして、本気でその修行をさして頂くということが、本気でその修行さして頂くということになれば、誰しもが分からして頂くのが信心なんです。あんた器量が悪かけんだめ、あんた心がこまいからだめということはない。どんな人でもその気になって修行させて頂けば、修行がでけれる、言わば稽古がでけるのが信心なんです。
問題はだから、本気でここには信心の稽古に来なければならないということです。だから、一切が信心の、修行の材料ばっかりなんです。それをいよいよ生かしていく、言わば手立て、その道をここでは日々教えて頂くわけであります。どうぞ、祈願祭。それは私どもの様々な願い、その様々な願いが成就する。その成就した暁に、それを頂きとめさせて頂けれるおかげの受け物を作らせてもらう。おかげの受け物であるところの修行もまたさせて頂く願いも一緒にさせて頂かなければならんということを、今日は聞いて頂きました。本日はありがとうございました。
いよいよ、今年の教祖90年のお祭りが、福岡からもたくさんご参拝があるわけでございます。私は、ただもうほんとにお参りをするというだけではなくてです、もうそれこそ、教祖様、そして二代様、そして三代金光様、方たちのね、この式年というのが90年、四神様が80年、先代教主様、三代金光様が10年の式年にあたっておるということなんか、もうただただありがたい。
それにまあひとつ、合楽教会としては、善導寺の初代の教会長荒巻弓次郎先生の40年の式年でもある。はあー、金光教のお徳というものをね、そこにまるで見るような気がいたします。死のうと言うたって死なれない。それがです、教祖様がお国替えになる10年の式年式年にです、例えば四神様も三代様もそして私どもの親先生であるところの弓次郎先生もおかげを頂いて。
先程先生が申しておりましたが、今年次々と、今日ここで中心になるほどしの方たちがお国替えになる。けれども、ほんとにそれは悲しいことである。けれども実に尊いことである。もう教祖様の式年といつーもその式年が連れのうというほどしの、もうこれはね、ただごとではない、金光教のお徳が露出しておる。また露出しておるそういう様を私は拝まして頂くのが今度の記念祭だという風に思うんです。
だから、私どもはそういうお徳にあやからせて頂くことのためにです、いよいよ90年祭のご参拝がいよいよありがたいお徳に触れて来れれるほどしの受け物を作っておかなければならない。そういう願いもまたしておかなければならないということでございます。どうぞ。